フラギイのメモ

Twitterで書き散らしたことを体系化しようとした。

仮面ライダーアギト感想:第33,34話

ついに三人の物語が交わりだす

 翔一
 今までは多少の苦戦はあれ戦う生活自体はやれていたが、自身の根源となる恐怖に出会い、その状態が解けてしまった。
 翔一はなぜ自分のために戦えなかったのか?それは今までの彼には、自分の為も何もその“自己”がなかったのだ。今まで語ってきたとおり、彼は記憶喪失により執着すべき己やそれに関するものを失った。だから、彼は自分が死ぬ、何か失うかもしれないとかそういった執着と無縁だった。だから悪く言えばお人好しさだけで戦えていた。いわば精神的な改造人間なのだ。しかしエルと出会うことで、それに関する根源的な恐怖を引きずり出され半端に人と仙人の間で足の置所を失ってしまったのだ。
 しかし、ここで注目したいのは彼が発した「自分はうまくアギトをやって行けるのか」という吐露。アギトをやれるのかという迷い。アギトであること自体にはまだ自暴自棄には至っていないのだ。それはまだ自分の周辺の人が具体的に傷つけられていないから踏みとどまれている、彼の芯の強さだろう。

 葦原とは世界に二人だけの同族と言う安心感がそうさせているのか、翔一らしくなくよく喋る。記憶を失っているときは気にしていなかったアンノウンの目的やアギトの出自を気にしている。これは会話の内容そのものより、なんとか葦原と話して気を紛らわせたいのだろう。

 沢木のかつての言葉、「自我を超越した者だけが力を制御できる」の通りライダー3人の内、仙人たる翔一だけが最初は力とうまく付き合えてるのだが、エルによって過去を思い出した(=仙人でなくなった)翔一君が戦えなくなったときに、氷川と葦原が泥臭い根性で相手に挑んでいける構図もそれぞれに華を持たせてて好印象だ。
 それまでアギト程上手くやれてなかった、いわば凡人二人が、これまでの苦戦した経験によって自己を持ったまま成長して恐怖に臆さず挑んでいけるようになっている。氷川は力が追いつかななったことや、葦原は強い力を持て余すなど苦労していた分、こういった、自分の手に負えない事態にもある程度耐性ができていたのだろう。

 そんな翔一も二人や真魚との交流で自分のために戦うと奮起し恐怖を乗り越えた。沢木の言った「自我を超越したものだけが力を制御できる」という言葉だが、彼が必ずしも正しいとは限らない。かつての恐怖を呼び覚まされそれを超えた翔一は(そして氷川と葦原も)、執着する自我を持ちつつも新しい段階へと止揚した存在なのかもしれない。


真魚
 自分のために戦えるはずだと、ドンピシャに翔一への適切なアドバイスを出す真魚。翔一の精神構造は複雑なのはこれまで語ったとおり、そんな翔一に対し超能力で見通すのではなく自分の考えで翔一に助け舟を出す彼女。誰よりも近くで翔一の戦いを見てきたからこそ言えるのだ。

氷川
 ギルスが人間であることを知る。そこでアギトが人間である着想に至るわけだが、こういった予見は小沢がほのめかしている。小沢はその天才の柔軟性で常に視聴者の半歩先の発想を示し、物語の導線となっている。ここが彼女のすごいところだ。
 そしてそんな事実からアギトへの幻想を加速させてしまう氷川。相手を疑うよりはいいのかもしれないが、こういう思い込みの強さは結構北條といい勝負なのではないだろうか。

 場面変わって葦原宅で「人を守るのに理由は要らない」という氷川。自らの力に悩む翔一や葦原と違い戦うことに一切迷いは見せない。そんな彼がアギトに目覚める素質は全くないのだから、アギトの力というのはどこまでもニュートラルだ。この力が顕現するのは正しい心でも清廉潔白な奉仕精神でもなく純然たる素質と遺伝なのだ…。だからこそ力を持ってしまったものがどう使うかはさじ加減ひとつなのだ。
 そしてその台詞通り、ギルスと共闘したとき、ギルスをかばうような動きを見せている。超能力を持つ(見通すことができるであろう)あかつき号乗客ですらギルスを(アギトとも違う)化け物としか見られなかったのに彼はギルスを化け物とは見なかった。「葦原涼という市民」を守るために身を挺したのだ。超能力者でさえ、その怪物然とした外見から、たとえ命を助けられてもギルスを怪物としか見なかったが彼は違った。ここ数週はコメディリリーフ的な見せ方が多かった無骨さがシリアスな場面で生きてきている。



葦原
 蘇生したばかりにも関わらず真魚の依頼を軸に動く。彼の律儀さはもちろんだが、何がなんだかわからない状況でとりあえずの“目的”となっているのも良い作用をしているのかもしれない。とはいえその目的のためとはいえ、いきなり翔一のために命を張れるのだからそこも彼らしいのだが。
 これまで食事シーンがほとんどなかった彼が翔一にミネラルウォーターを渡すのは感慨深い。「自分の人生を憐れみたくはない」という台詞も初めて自分自身の人生に関する恐怖にさいなまれた翔一にとって、直接の解決策ではないが(というよりだからこそかもしれない。個々の答えではなく今後の指針となる勇気づけなのだから)彼の心を支えただろう。
そして「自分の人生の意味を見つけたい」という言葉。あかつき号の謎から少し抽象的に、しかし前向きになったところを伺わせる。翔一が同属に出会って喜んでいるように、葦原もまた自分と同じような存在であり、暖かな翔一に絆されているのだ。
 以前の感想で対翔一スタンスでその人の器用さが見えると書いたが、その線で行くと「アギト=翔一」という事実には驚くがすぐに受け入れ(彼のために変身した)、その後の菜園シーンから(深く関わって日が浅いにも関わらず)翔一の暖かさを見抜くなど周囲のものからその人となりを見抜く目を持っていると言えるだろう。

 さて今回翔一とあっさり和解したたけだが、もちろん翔一の人徳と葦原の目があってこそだがもう一つ注目したい。その直前に沢木と会話し「ギルスもアギトの一種だ」と教えられている。ここでアギトは人間が変身した存在であり、榊の件においても何か人間的な思惑や事情があるのではないかと考える素地ができていたのではないか。

 いずれにせよ、彼らの争いは持っている情報量・知識の差異によるものであり一度人柄や考えを認識すれば収められるものなのである。かつて白倉Pは「一度和解させたら争わせられない」と言っていた(平成ライダー初期頃のどこか雑誌のインタビューだったのだが具体的には失念してしまった。思い出したら追記したい)。そのとおりアギトでは情報量の差による誤解、龍騎は戦わなければならない設定、555では共同戦線は張るが心理的には和解などしていない(それでいてイメージほど草加カイザと巧ファイズは変身しての戦闘は殆ど無い)といった具合だ。なので「既に互いの素性や人柄を知っている(かつ一度は仲良くなるくらい接近した)にも関わらず、一時のカルシウム不足で武力衝突する」というのは彼の作品ではあまり無く、他の作品によって作られたパブリックイメージなのだ。少なくとも初期の白倉P3作においては。

謎の青年
 今回、改めて目的が明確に描かれた青年。沢木と真島の会話からやはり、不特定多数の人がアギトになることが語られた。それを嫌っているのだ。そして同時に人間を愛しているという青年。彼は非常に抽象的な物言いをするが(でもたまに非常に説明的に喋ってくれる)、これまで嘘はついていない。そんな彼が人を愛しているというのは本当なのだろう。なぜ人間が変わるのが嫌なのか、そこまでは語られていない。しかし今まで本作で扱われてきた「幻想」「人の知らない一面」といった要素から考えると“自分が理想とする人間”以外の面など見たくもないのだろう。超然としつつもどこか人間臭いところを持っていると言えないだろうか?

 そんな彼とまるで友人であるかのようなエル。人に取り憑く。翔一の根源的な恐怖に関わっているなどやはり普通のアンノウンではない。


アギト&アンノウン

オルカの奇襲能力に翻弄されはしたものの肉弾戦では互角にわたりあったギルス。復活してエル戦に突入したもののその辺りの力強さは十分に描写されているといえるだろう。
 最終的にオルカはアギトに倒された。そこにはややアギトが仕留めるノルマ的なものを感じないでもないが、翔一の体に異変が起きていることや、焦りを感じているのかアギトがいつもより必死に攻め立てていることからそこまでの不自然さは感じない。

 マンティスの強さも絶妙で興味深い。単純な腕力ならG3-Xやギルスも拮抗しておりなんとか倒せそうなのだが、その都度水のエルが助太刀に出てきて苦境に立たされるというもどかしさがドキドキさせてくれる。
 そういえば今回、葦原は翔一を守るためにマンティスロードと戦っていたが彼はアンノウンの感知能力がまばらなため、脚で相手をひたすら探し回っていたはずだ。涙ぐましい努力と言えないだろうか。

 そして、翔一の決意に呼応し顕現したバーニングフォーム。これまでのどのフォームとも全く違うその姿は、まさに既存の集合(既知の中でのやりくり)だったトリニティとは違い、新たな領域に一歩踏み出したことを象徴さているのではないか。大地(グランド)から火(バーニング)が興るのも生命の進歩を辿っているかのようだ。

 エルより格下とはいえ、一般怪人格でも基本的に感情を感じさせず厳かなアンノウンを一撃で倒す様は頼もしさを感じさせる。基本的にこの作品は同時変身や全員での共闘はおいそれと見せないが、今回に限ってはサブ二人が倒されたところに主役が遅れて登場し満を持して倒すというとても典型的な展開を見せてくれる。たまにだからこそ、際立つのだろう。


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