フラギイのメモ

Twitterで書き散らしたことを体系化しようとした。

仮面ライダーアギト感想:第50,51話

翔一
 アギトになっても楽しいことはいっぱいあった。彼のポジティブさが光る。これからアギトが増えていっても彼は人を温める者となろう。戦いという表現がなくなっても。
 彼が最後に自分の店を持つ。これは最初は自分の領域のなかった彼が自分の領域を持った示唆だ。彼も地に足ついて生きていく“人”なのだ。
 人の領域にはするっと入るけど自分の領域は持たない摩訶不思議な人間。それが自分の領域を持つ。それは錨であり、見方によっては津上翔一という不思議な人間を普通の人間のレイヤーにまで引きずり下ろすことかもしれない。だがそれでも翔一は翔一としての確固たる存在を保ち続ける。自分のまま変わればいいのだ。
 白倉Pは著書の中でヒーローの要素の一つとして自己否定を挙げている。では一見幸せに大団円を迎えた翔一には自己否定の要素があるのだろうか?私は“ヒーローとしてだけ見られる”ことを否定して終わったのだと思う。これから戦いがあろうとなかろうと翔一の人生は続く。もちろん必要があればアギトの力を使って人を助けることもあろう。だがそれは彼の全てではない。もっと普通の、所帯染みたところも含めて津上翔一なのだと主張しているのだ。



氷川
 警察上層部が言っていた「アギトへの対応をアンノウンに任せればいい」。これは戦闘能力という意味だけでなく、紛れもなく市民でもあるアギトを攻撃して警察が批難されることを恐れているのだろう。
 警察内部の方針争いに巻き込まれ戦いに出向くことすらできない氷川。アギトにとって辛い時代になると告げる氷川。彼自身納得していないことがわかる。何より彼は第一線で強化服で怪物と相対する恐怖と戦うことを続けてきたため、そこで命を助けてくれたアギトには不安や嫌悪よりも好意が先立つのは当たり前だ。そんな彼がアギトという守るべき市民でもあり、友人でもある存在をたすけるために所属する組織にすら牙を剥く。これもまた一つの形の自立と言えるだろう。相手を察してすぐに開ける尾室もファインプレーだ。

北條。上記の氷川に対して、一歩引いた視点からアギトに対して不安や先の迷いを見せるのは当たり前だろう。北條と氷川・小沢の間に大きな差はない。ただどこに立ってアギトを見ていたかの差に過ぎない。
 ただアギトに対する不安は表明したもの、アンノウンを保護するとまでは彼も言っていない。そこを上司に拡大解釈されてしまって引っ込みがつかないのは彼の意地っ張りな部分であり、翔一に対抗心を燃やしていた氷川にも通じる部分がある。氷川と北條、正反対なようでいて似た者同士だ。
そんな北條と全編に渡って火花をちらしていた小沢。わたしは以前、感想にて能力的には翔一しか並ぶ者がなくて彼女は孤独だと書いた。だが能力は違っても自分に接してくれる友人(氷川、北條)がいるというのは、とてもかけがえのないことだとも思えたのがこの最終回だ。


葦原
 あの葦原が一度はやけっぱちになって「構わないぜ。(とどめを)やれ」と言ってしまう。それだけ今度ばかりは堪えたのだろう。だがその肉体はもはや彼に折れることすら許さない。立ち上がってしまう彼
首を貫かれても死なないとは、心情的な例えでなくまさに不死身になってしまっていたのだろう。
 ただそれでも自暴自棄にならないのが彼だ。不幸に見舞われるたびに冷静になり、おそらく今後も目的(リサの弔い等など…)と関係なく立ち上がり続けるのは、数話前に言った「夢(目的)がなくても生きていける」を表しているのだろう。
 最終回にて川岸に漂着する彼は、偶然か当作品冒頭の翔一と同じ構図だ。白倉Pが著書で語ったヒーローの要素の一つにある「出自不明の来訪者」という条件を満たし翔一に並ぼうとしている…?普通に生きることを望みつつも、翔一と同じ仙人の領域にも足を踏み込みつつある。翔一とまた違った形で、異能の自分を受け入れながら己特有の生き方を確立していると思う。







沢木&黒い青年
 可奈の自殺を翔一と共に防いだこのとき“津上翔一”としての本懐を成し遂げたのだろう。悪の首領から与えられた二度目の命をそれではなく自分のために使ったこと。これも一つの自己決定、自立を意味している。
 彼が発した「人は自分で自分を救わねばならない」という台詞。それがこの作品を表していると思う。この台詞はニヒリズムではなく、人の強さを信じられるようになったならこそ発しているのだ。事実、例えば木野は真島や葦原に凶行を止められつつも、最後の最後自分の心を救うのは自分で行った。「人にできるのは手助けまで」。これは人のつながりを肯定しつつ、同時に己の足で立てる強さも肯定しているのだ。

 そんなもうひとりの主人公とも言うべき沢木の奮闘を間近で見てきた黒い青年。アギトたちの奮闘と沢木の奔走。それらを見て本当に希望を見出したのかもしれない。また、神としての寿命を持つ自分が気まぐれで見守ってやってもかまわないからという程度かもしれない。きっと彼には“(彼にとっての)幾ばくかの間”、人々の行く末を見守っていくのはさほど忍耐を要することでもないのだろう。いずれにしろ人々の行末を見てみるという気にさせたのは事実なのだ。神が何を考えていようとも別にかまわない。相手は神とはいえ、他者の内なる考え方まで強制して変えたりする必要はないのだ。人の未来は人の手に取り戻された。それだけで十分だ。


 さて、このラスト5話の意味はなんだろう。私は神話の時代から人の時代へ移行するに当たって、異能たちが神話の世界へ旅立つのではなく人の位相へ居着くためのものではないかと思う。
 今でこそ此処のエピソードの意味は語られているが、放送時からしばらくネット上ではこの5話の評判は芳しくなかった。わからないでもない。アギトやあかつき号といった謎から解放された翔一や葦原は我々と同じように取るに足らない普通のことに悩む。戦闘でも設定上の幹部怪人とはいえ盛り上がり所(46話)に遅れて出張ってくるような奴らにアギトもギルスも苦戦する。G3-Xに至っては内輪もめのようなしがらみで出撃さえできない。ヒーローエンターテイメントとしては確かに歯がゆいだろう。また、それまでの仮面ライダーというと、
最終回のあとも戦いの世界に旅立っていく昭和ライダーや戦いは終わり我々と違う世界へ旅立っていくクウガだった。それらに対し、人として地に足つける翔一たちというのはとても異質に映ったのもあるだろう。
 だが、それでもこの5話は必要なのだ。当作品の一連の感想において、アギト放送当時までの異能物作品の主役の価値観に近いのはあかつき号乗客たちだと語ってきた。非日常の世界に身を置き、そこに自分としての価値を見出そうとする。戦いの世界へ旅立っていく。それと正反対にいる新しいタイプの異能が翔一であり、両者の間を彷徨い不確定なのが葦原だ。翔一はかつての常人としての記憶を取り戻しつつも新たな自分に止揚し、葦原は翔一の影響を受け目的に突き進むという生き方にこだわらずに済むようになる。そして共に日々の生活を生きていくことになる(そこにあるのは幸せだけでなく、我々視聴者と同じ、つまらないと感じてしまうような悩みや不満が渦巻く)。そしてそこに、普通の人間の身で同じレイヤーに並び立つ氷川。
 創造主と天使はまた神話の世界へ旅立っていった。しかし異能は現世に留まった。神話の時代から人の時代へとは言ったが、アギトの世界ではそこにアギト(異能)がいるのが特徴だ。余談だが、「仮面ライダーアギトグラフィティ」で白倉Pはギルスについて「アルビノみたいなもの。大きな理由はない」と言っていた。これを説明する台詞などがなかったのは葦原の生き方というドラマの主題とは関係なかったからだと思うが、わたしは他にも意味を見出す。それはギルスもまたアギトと同じ括りでの“異能”であり、多少の違いよりも異能という身の上でどう生きるかのケースをバリエーション豊かに見せるためだろう。たとえギルスが人間からアギトよりもアンノウン寄りに見えるような差異があれど、それはやがて人々には大きな違いではなくなるかもしれない。
 人は守られるだけの子羊ではないし、異能もまたお高く留まった世界の住人でもない。両者は隣人なのだ。みんなレストランAGITΩで一緒に食事を楽しむことができるのだ、と。この作品はそう発しているように私は感じた。




アギト&アンノウン
 久しぶりに出撃する氷川G3-X。今まで出撃自体を封じられていた分奮闘ぶりだ。今までは翔一を介した知り合いくらいの距離感だった葦原と連携を見せるのも良い。今まで必殺技ラッシュには加わらなかったG3-Xがここに来て加わる。最終回に並べるとっておき感が場を盛り上げてくれる。不死身となって立ち上がるエクシードギルスもここに来て新必殺技を見せる。そういえば一年に渡って“刃の部分が当たれば必殺”という演出は一貫しているものだ。
 そんな氷川たちと相対する地のエルだが、短い出番ながら唇が可動するマスクを与えられている。そのおかげでG3-Xとの会話に画的な説得力が出ている。こういったところでも手を抜いていないのが好感を持てる。
 アギトが強化地のエルに再戦で優勢だったのは、もちろん気合と進化し続ける力が主であろうが、剣ではなく得意の徒手空拳というのもあるのではないか?グランドから一貫してアギトの持ち味は格闘戦なのだと、挿入歌とともに立ち返ったのかもしれない。