フラギイのメモ

Twitterで書き散らしたことを体系化しようとした。

仮面ライダー555感想:49,最終回

 

 

・巧が見つけたのは「答え」ではなく「夢」  

 戦う理由や正しさを探し求める木場。

答えがなくともすべてを飲み込み戦う罪として背負う巧。17話の頃からずっと対になっている。

 見てみると巧はこの数話において、オルフェノクが辿る運命について意見を述べていない。やはり本音はそれについて納得できないものがあるのだろう。だがそれらを飲み込んで、オルフェノクが人間を滅ぼしてしまわないように戦うのだ。

 

 また、照夫のことを誰にも説明せずに倒そうとするのもその現れの一つだ。

 口下手で説明不足という印象のある巧ではあるが実は他人の名誉に関することはキチンと説明する傾向にある。澤田や真理関係に関しては顕著だし、啓太郎や長田へのフォロー、劇場版だが木場の弁明などがそうだ。今回、草加の死を真理に説明したのも隠したとしてもいずれバレるものであるので、他の誰かに言わせるくらいならば…というわけだ。

 では、巧が口を閉ざすのは説明すれば他者を危険に晒すこと(初期のクレインオルフェノクへの処遇など)や、説明してもどうにもならず他人に苦しみを背負わせるだけになることの場合だ。照夫の件がまさにそれだ。説明といえば聞こえはいいが、どうにもできない問題である以上それをしたところで痛みの分散にほかならない。啓太郎や海堂に説明したところで彼らを悲しませるだけだ。ならば彼らに知らせずに照夫を手にかければ、真実を誰にも知られず自分が手を汚すだけで済む…そう考える男なのだ。そういったやせ我慢の戦いを続けたきたのが乾巧なのだ。

 あの草加でさえ、やがてオルフェノクにも心がある事実から顔を背けきれず擦り切れていった。巧はオルフェノクに心があることを真正面から見据えながら彼らの命を奪い続けてきた。もちろんそれは人の命を守るためだ。だが、それは彼自身が言うように罪でもある。

 我々は人間なので人のために戦うことが英雄に見えるだろう。だがもう少し広く見てこの地球からすれば繁栄するのが人間だろうがオルフェノクだろうがどちらでもいいことなのだ。善悪といった道徳の話は同種の知的生命体の間でしか通用しない。もし村上や南雅彦の言うように人間とオルフェノクが道を違えた別種ならそこにどちらが生き残ったかの結果以外意味はないのかもしれない。 

 他方、オルフェノクと人が意思疎通できる以上そこに通じる友情や善悪はあるはずだと考えることもできる。だがその場合にこそ、心ある存在を手にかけてきたのは他ならぬ巧であるという事実がのしかかるわけだ。“戦う罪”とは単なる大義名分や免罪符ではないのは最後に巧の命が危ういと捉えられる描写からもそれがわかる。命を奪う罪の咎は巧にもきちんと覆いかぶさってるのだ。

 見ようによっては巧も木場も命を落とした。答えを探すことも探さないこともそれ自体に優劣はなく、ただ人が生きた結果なのだと言っているようだ。であるならば、木場が正しさを求めることだって誰か責められようか。多くのフィクションの場合、主人公が戦う理由や目的を探しそれを背負うことは是とされる。木場もそれに当てはまる。ただこの作品では必ずしも世界観に肯定される正しさには繋がらなかった、そもそもそういったものはなかったというだけのことなのだ。

 

 しかし巧は見つけた。答えではない、夢をだ。オルフェノクと人がどうなるのかが正しいのかという答えはまだわからないが、各々が自分の人生を全うしてほしい。そう、皆が生きる自由を自分は守りたい。そこからはそれぞれの人生を成していく。そういった意味で巧は答えではなく、己が成したい夢を見つけたのだ。

 

 かつて白倉氏は著書の中で英雄の構成要素が「特殊な出自の来訪者」が「何かを得る」と記した。そこへ行くと巧は無私の来訪者が夢を得るというまさに英雄物語と言えるだろう。 

 この作品において変身できるだけでは特別な出自とはならない。オルフェノクは数が少ないとはいえ、複数発生するワンオブゼムでしかない。流星塾同窓会のように(いかにも仮面ライダー足りうる)特別な過去をもつ者も複数いる。その中で、巧のバックボーンは語られないのは意図的なものだろう。皆が(他の作品なら主役になれる)特殊な過去を持つ中、逆に何も持たない出自不明の来訪者、それが乾巧なのだ。

 

 

 しかしそれでいて夢を持つことだけだ素晴らしいのだと語っているわけではないことも付記しておく。この作品では"夢は呪い"の下りが有名だ。しかし、同時に"夢を持つと熱くなる"だったり仁丹刑事の"卵を暖めるように抱き続ければ叶う"と、作中での正解みたいなものを出さずに色んなキャラが各々の価値観を持っておりそれぞれに優劣や重みをつけないのが素晴らしいと思う。

 かつて、アギトの葦原涼が再び水泳の夢に再起するのではなく、「夢がなくても普通に生きられれば良い」という成長とも老成とも取れる言葉を語ったことに通じるものがある。

 夢があるのは素晴らしいが、なくても当人が幸せならその人生もまた素晴らしいのだ。

 

 

 さて、最後の三原の言葉象徴的でわかりやすいものの、私はテーマを締めたわけではないと思う。「力に溺れず、異種族とも仲良くしましょう」という限りなく一般論に近い言葉を草加や村上が知らないことなどあるのだろうか?私はそうは思えない。特に草加は上述のように、敵対存在にも心があることから目をそらしきれず擦り切れていっているのが見受けられた。村上が巧たちに語った言葉も真実である可能性もある。もちろんラキクロのような輩もいるが…。

 それでももはや「力を以て敵を排除せねば、己の身を守れない。己の奪われた尊厳や人生を取り戻せない。」そういった考えに陥るまで追い込まれた人間たちのあがきであると思うのだ。

 

 

 クウガ、アギト、龍騎と毎年尖った作品作りに挑戦していた初期平成仮面ライダーにおいて、仮面ライダー555とは一年間何を描いてきたのだろうか?それは「殺していい存在とはどこからどこまでか?」をずっと投げかけて描いてきたのだと思う。

 流星塾同窓会はアギトのあかつき号と違って物語の屋台骨となるものではない。そこから様々な形の“人ではなくなった”者や居場所を失った者を生み出し、我々に様々な投げかけをするための者だ。

 異形となったことを受け入れられる者、受け入れられない者。本心では受け入れがたいが、現状肯定のために賛美する者。同情できる理由で力を振るう者。力は何かの手段でしかないと割り切る者。力に溺れる者。より強い力に従わされやむなく振るう者。様々な怪人が現れた。これほど多彩な怪人の行動を描けたのは、オルフェノクそのものは自然発生するためその力自体には(例えばショッカー製怪人のような)目的がないのも一因だろう。

 そしてそれらの命を奪っていい判断材料とは何なのか?劇中人物にそれが見えるのか?良い怪人なら見逃せば良いと安易に答えを出しがちだが、その線引とはどこからなのか?もしかしたらそんなものはないのかもしれない…。

 そういった意味で「怪人に人間性を認めると問題が複雑化する」という南雅彦の台詞は、この番組を端的に表しており、かつ地上波番組としてはとても攻めているといえるだろう。“俺達”と“あいつら”は違うと簡単に線を引ければ簡単に排除できる。だから線を引きたい。なんなら俺が新しい線を引く道具を作ってやる。とても合理的だ。だが、それは同時に境界線の中に己を閉じ込めてしまう行為なのではないだろうか?対照的に、巧たちは例え道のりが辛くても境界線を決めない選んだと言えるのではないだろうか…。

 

 英雄とされる存在が敵の命を奪う。たったそれだけのことをひたすらに掘り下げ、解像度を高めて描いた。そしてそれが鮮烈な武器になる。それが仮面ライダー555という番組の、初期平成ライダーが進化する過程で後続の糧となった特徴なのではないかと思う。

 

ファイズ&オルフェノク

登場人物たちが激しくぶつかっていった回でもある。

 

まずはファイズ&デルタ対ドラゴンオルフェノク。最強の存在ではなくなった北崎だが、それでもベルト二本がかりまででは倒せないという線引が厳然と引かれていた。だが今回はようやくその限界を超えた。草加の弔い合戦に燃える巧と三原が北崎を打倒したのだ。また、その中にラキクロ二人の離反もありわずかながらにライダー二人の加勢となったのも説得力のプラスになっている。

 そして突破口となったデルタの密着射撃。草加は自分達の仇を打てなかったが、草加の思いを汲んだ三原や草加を助けようとしていた巧により北崎を返り討ちにすることができた。それが熱く、そして同時に哀しくもあるのだ。

 

 そんな北崎にとどめを指したのがアークオルフェノクだ。この手の番組だとなんだかんだ名有りキャラは助かるのではないか、と楽観視していた私はアークの容赦のない捕食に恐れたものだ。

 アークは言葉を発せずただ他のオルフェノクを食らったり逆に力を与えたりする様子は、理解不能な恐怖を感じさせまさに脅威そのものだ。下手に喋らないのが威厳を保たせている。照夫がアークに変身するのではなく、彼を破壊して生まれるのも他のオルフェノクとの差異を表している。この手のジャンルだと子供(子役が演じる人物)は助かるのが不文律だと思うが、そういう点でもなかなか攻めた絵面ではないだろうか。

 カイザとデルタの拘束ビームを簡単に弾き返し、ベルトを破壊するあたり戦闘能力もかなり高い。ファイズブラスターフォームを正面から苦戦させたのも当然ながらポイントが高い。

 

 

 そんなアークオルフェノクとの勝利の立役者となった木場さん。彼の新たな姿、激情態。ブラスターフォームを使わせるあたり、彼の言葉通りドラゴン以上の力だろう。だがそれでもファイズに、巧に敵わなかったのは彼の中でとめてほしい思いがあったからではないだろうか。激情態とは彼にとっての迷いを表しているのだとも思う。 

 アークオルフェノクを羽交い締めにするときに激情態ではなくいつものホースオルフェノクの姿が映ったのは、彼の心情の変化を表していると思う。