フラギイのメモ

Twitterで書き散らしたことを体系化しようとした。

仮面ライダー555感想:21,22話


 今回は主人公・巧から、木場・真理・草加へのそれぞれ違う形での信頼が描かれている。

 まずは木場。彼とは少しずつ打ち解け合いながら今回に至ってともに危機を乗り越えた。それが真摯な友情となりつつある。それが色濃く現れているのが木場に素直に名前を名乗る場面であろう。巧はあまり名前を教えたがらない。多くの人物が彼の名前を知るのは書類を覗いてだったり第三者の紹介越しだったりだ。他人を裏切るのが怖いと言ったことからもわかるように、彼にとってパーソナル部分を他者に開放するのはとても難しいことなのだ。
 また木場から巧への感情も同様だ。“ファイズ”への憎悪が膨れ上がっていく木場だが考えてみれば当然だ。ファイズは「同族の仇」としてだけでなく、今回の話で「最近できた友人(巧)をも襲ってきた存在」なのだ。ファイズが現れたということは同族や巧を殺害したあとなのではないか、と懸念する気持ちが沸き起こるのだろう。今回のさりげない配慮としてオルフェノクという単語を使わず巧を気遣う木場も見どころだ。 

 

 真理と恋愛について駄弁るときのフランクな友人感は木場とはまた違った形の信頼だろう。木場に対しては熱い気持ちを抱くがゆえの「対等で居たい」という張り合いや力みのようなものがある程度見て取れるが、真理に対してはそういったものは見受けられない。「自慢ですか」と茶化す巧と、それを受け流しつつ自分の恋愛事情をあけすけに相談する真理。既に旧き友人のような気のおけなさだ。
 

 そして、最後に草加だ。草加に失態を隠さず伝える巧の姿は、これもまた一つの信頼感の形だろう。確かに二人はお互いに行為など抱いていない。草加が帰ってくるとしれば露骨に面倒くさそうな顔を隠さない。だが、それでも戦士としての実力は評価し、忠告をするのだ。実際、草加は琢磨・影山に対しては遅れて遭遇し今回が初めての交戦となる。その中で倒すとはいかずとも対応できている。巧が信頼にするだけのことはあるのだ。


 巧が3人に向けるそれぞれの形の違う信頼。今回目を引くところの一つだ。 

 そして巧に関してもう一つ。彼が店長を見逃したことだ。これに関しては以前の回で描かれた戦う罪を別の視点から表したことだと言えるだろう。作品世界に生きる一人にすぎない巧が得られる判断材料は限られていると前回までの感想で書いた。命を奪う判断に値する情報を探していてはまた別の命が奪われる。そんな事態を見過ごすくらいならばそれを背負って相手を手に掛けるのが戦う罪だ。ならば、「良い怪人は見逃す」と判断することもまたやっていることは同様と言える。人生の中で、たまたま善行しているところを目撃しただけかもしれない。今後もそうし続ける確証はない。それでも自分が良い怪人だと判断したら、その後も平和に生きてくれることを願って見逃す。言ってしまえば不公平なわけだが、その不公平を背負うのも「戦う罪」の一つなのだ。

 
 草加雅人については意外な面が見えてきた。それは権謀術数を張り巡らせる普段彼を見ていると考えられない激情的な面だ。真理が木場を好きかもと言ったら、居ても立っても居られなくなり無策で彼に会いに行く。「自分でもどうしたいのかわからない」と言う言葉はおそらく本音だろう。オルフェノクが襲ってこなかったら、あのいたたまれない空気をどうするつもりだったのか。そんなところにちょっとした可笑しさと草加の人間味を感じるのだ。

 

 一方でスマブレサイドのラッキークローバーの補充問題について、村上と琢磨・影山の間で温度差のようなを感じる。もしかしたら村上はラキクロを刺客としてだけでなく、同族のためにオルフェノクの優雅な生活のモデルケースとして広報したいのだろうか?人材アピールの場にも使いたいが、当のラキクロたちは自分たちの現状に誇りを持っており安易な新人を入れたくないと言ったところだろうか。

 

ファイズ&オルフェノク

 今回新登場となったアクセルフォーム。これまで苦汁をなめさせられた琢磨・影山への反撃の景気となっている。特撮表現も2回とも異なるもので視覚的にも楽しい。またゲストオルフェノクがなすすべなく倒されるのに対し琢磨影山は防御できているところで実力の違いがわかる。
 ファイズアクセルの登場はあっさりしているがおそらくは意図的なものだろう。ラキクロ二人への反撃と前述したが、それ自体は強化のおかげで難易度が低くなったという手段の話でしかない。ピザ屋店主を見逃すのも別にノーマルで戦闘していても同様に見逃しただろう。巧が何かを考え方を変えたからファイズアクセルを入手できたわけでも、ファイズを得たから考え方を変えたわけでもない。ノーマルでも同じことをするだろうが、アクセルのおかげでちょっとだけ目的を成しやすくなった。そんな感じだ。
 アクセルは純然たる道具に過ぎないということを強調しているのだ。これは力は力でしかない、何かを導いてくれたりはしないというドライさと同時に、巧は力に溺れることもないということの証左でもある。(かつてのカクタスオルフェノクなどは、ファイズに変身して憂さ晴らしに同僚を手に掛けるという“力に溺れた例”であろう。)

 

 ホースオルフェノクと戦っているとやたら助けに来てくれるオートバジン。ラキクロのような明確な格上よりも、同格のほうが泥仕合に長引きやすいので、結果的に強敵と学習しているのだろうか? 
 今回はホースオルフェノクは派手な動きが多いためたなびくタテガミが印象に残る。初期平成ライダーの怪人は質感の問題からか、着ぐるみにもそのままの毛は使わずモチーフの体毛は鎖や棘などに置き換えて表現するイメージがある。ホースの場合は馬の地毛、鬣というだけでなく兜の装飾でもあるためそういうものとしても見立てられるので、馬の鬣そのものを質感再現しなくても違和感なく見ることができるということだろう。

 
 今回は変身前でのアクションが多かったが、木場がスコーピオンに殴られているところを幸いにも巧に見られていないため、異常な耐久力にも疑問を抱かれないのは上手い。
 ドルフィンオルフェノクはイルカの流線型・曲線的な姿をモチーフとしており、店主の温和な人柄をうまく表していると言えるだろう。どちらかというとゆったりした衣服のような外皮は、いかにも鎧と言った姿のスコーピオンと好対照だ。