フラギイのメモ

Twitterで書き散らしたことを体系化しようとした。

仮面ライダー555感想:43,44話

 

 前回はファイズに殴りかかるカイザの絵で引いたが案の定ライダーバトルには発展しない。最早お互いの行動の意図(少なくとも何か事情があること)を把握しているからだ。白倉Pの作品といえばライダーバトルという印象がある。しかし、インタビュー等では初期の平成ライダーの頃は一度和解すると再度争わせるのが難しいと言ってるのだ。その通り、実は彼の作品では「お互いの人となりを知ってて理解し合ってるはずなのに一時のカルシウム不足でライダーバトル」というのは実はほとんどない。アギトやギルスは互いを最初からそういう怪物だとくらいしか情報がなかったことによる面が大きく、相手が人間とわかればすぐに相手にも意図があったのだろうと矛を収めた。龍騎は設定からして互いに敵だと位置づけられた。555はと言うと巧と草加が最後まで和解しない。だから争っててもおかしくなはない。そしてその上で両者は歪な信頼関係を構築しライダーバトルに至らない距離感を持つ形となった。だから今の目で見ればファイズとカイザは変身前の仲の悪さに反して、ライダーバトルをしない。

 そして己も変身を解きベルトを持つ意味を説教する草加。なるほど言葉には一理ある。また、結局は彼も巧を(歪な形で)信頼している。

だが、長田を匿うかいなかのシーンで一人だけ反対しばつが悪そうに去っていくのは彼の孤立を示している。マクロはどうあれミクロな規模では人間たちのオルフェノクへの見方は変わっているのだが彼だけは変わらない。貫き通すといえば聞こえはいいが。「自分が命を奪ってきた相手も心ある存在だったなどと今更受け入れるわけには行かない」という意識があるのかもしれない。

 また三原も巧の処遇を巡って、敵とは思えないと自分なりの判断を下す(=草加の命令のもとから外れる)。三原が己の意思で戦い、頼れる人物になったことがそのまま草加の孤立を指しているのだから哀しい。

 

 そんな草加を気に掛ける数少ない人物が、真理でも啓太郎でもない、巧だ。かつて草加の慟哭から彼の中にある葛藤を知った巧は最後まで草加を見捨てない。他のメンバーが草加の二面性を知り、何が彼の本音なのかついていけないと軽んじていく中、巧だけが草加に向き合う。公園での会話だって、あんな話題で草加が本気で折れたり意見を変えるとは巧もおそらく考えてはない。だがそれでも草加に向き合おうとしたのが彼の優しさだ。

 

 その巧が口に出して凄いと称賛したのが啓太郎だ。実は彼はメインキャラではあるがオルフェノクの発生プロセスを長らく知らず、巧のオルフェノクバレに至ってこの時期に知ったらしい。だから戦いに消極的な巧に知らずにきつい言葉をかけたりしてきたわけだが、オルフェノク発生経路を知るのもこの時期だからこそ表現できるものがある。それは彼がこともなげに「じゃあ俺たちもいつかオルフェノクになるかも」と悪気なしに言ったところだ。その言葉に真理も草加も顔が険しくなる。真理は巧への信頼でウルフオルフェノクは平気になったが自分がオルフェノクになることやオルフェノク全体の超常性には忌避感を抱いているのだろう。それでも巧とは普通に接しているのだからそれはそれですごいことだ。

 そして啓太郎はオルフェノクの持つ腕力には恐怖するものの存在自体への忌避感はさほどないのだろう。だから自分がオルフェノクになる可能性をただの可能性の話、世間話として処理できる。たやすく境界線を超える。

 そんな啓太郎だからこそ長田をオルフェノクと知った直後に抱きしめられるのだ。

 43話の後半に、啓太郎と木場で「目の前で異種族が苦しむ」場面に遭遇する対比がたる。そこで啓太郎は安々と境界線を超える者だと視覚化されている。

 

 啓太郎と結ばれる長田さんの感情ってわりと状況に絆されてる部分も大きいのだが、それができるのもこういうときに啓太郎が人のためにすぐに動けるからであり帰結には納得ができる。海堂は根は良いやつとはいえ態度がちゃらんぽらんすぎた…

 

 

 今回は草加、啓太郎、木場といろんな人物のフォローに回る巧だが、木場とは足並みの揃わなさを露呈する。

 木場が吐露する迷いを、どうにも本気に受け取らない巧。実はこの時期まで巧は彼の頼もしい面しか見ていないので、彼を実態以上に神聖視しているのではないかと考えられる。

 木場の「自分と巧は自分がオルフェノクであることへの向き合い方も違うし実はズレがあったのなもしれない」という吐露にも、「どういうこったよ」と戸惑うばかりだ。

ただそれでも木場を激励するのが巧の優しさだが、実態を捉えていなければ言葉に説得力がない。

 今回のそんな巧と木場が車内という密室でのシーン。お互いの本音を吐露できる空間として機能している。巧と啓太郎といい、数少ないプライベート空間という感じで一貫した演出だ。

 

 木場に対する神聖視といえば海堂もだ。今回は露骨に木場の言葉に戸惑っている。直前に長田の啓太郎との恋を察してたり、音楽の道を行っていたのだか感受性はあるわけだ。

 

 

 

 

 

 オルフェノクたちの生き方といえばスマブレサイドもだ。今週は村上の思わせぶりな話が出てきた。これに関しては真偽を明かさないのが良い。明かしてしまったら理由によって手段の成否を判断してしまうことになる。アギト19話で司刑事は「主観を排し事実を直視する」という己の心情を裏切り、思い込みで花村を手に掛ける犯行に至ってしまう。ここでも花村が犯人か否かは司の是非には関係ない。自分の信条を裏切ったことこそが重いからだ。

 

 影山も巧や澤田、長田と悩めるオルフェノクたちにどれも一度は手を差し伸べている。「タカ派オルフェノク側から」彼らを救おうとしているのは間違いない。だがそれは彼らや人間たちの未来とは相容れないやり方なのだ。

 

 

 

そして第3の勢力、南雅彦

 

沢村刑事「もしオルフェノクが人間ならばここで行われていることは人体実験ということに」

南「余計なことは考えるな」

ここでの会話は、オルフェノクが公の存在になれば人間側の対応もこうやって割れるだろうという縮図だ。

 

 それにしてもオルフェノクをうまくコントロールできなければ今度はそれを「オルフェノクだから急に手を噛むこともある。これで危険性がわかっただろう」と澤村への意思誘導へ使う南雅彦の合理性。バットオルフェノクが澤村を始末すればよし、失敗しても人間たちにオルフェノクの危険性を流布できるからそれもよしのどう転んでも得しかしない策だ。

 村上と南の取引シーンも、セリフではなく視線と引きのカットでお互い腹に一物あることを察し合う良い演出だ。

 

 

 それにしても、南にとってオルフェノクから超常の力を取り除くのはついで以下の優先順位だろうに、そっちは成功していてそれが長田の命を奪う結果となったのが悲劇だ…

 

 

 

 

555&オルフェノク

 身につけた格闘技能と命を奪うことへの躊躇いのなさではロブスターだが、素質ではクレインというのがうかがえる。あまり戦闘の機会は多くないものの、オウルの策略を見抜いたときなどを始めクレインの素質の高さ(そして格闘技能はさほどでもないこと)が端々から見える。

 

 今回のゲストであるバットオルフェノク。ファイズとホース二人を相手に引かない強豪だ。戦い方も銃撃と格闘の両方をこなし、カブトクワガタコンビといい、やはり直属の部下にラキクロ並に強い手駒を揃えている村上。ラキクロはやはりタカ派オルフェノクたちを扇動するための優雅なモデルケースとしての意味合いが強いのだろうか。

 バットはコウモリの翼を服や帽子のディテールに落とし込み、あえて翼などにしないことで身軽なアクションと締まったスタイルを表現している。

 

 

 そして、今回改めて提示されるドラゴンの強さとベルト3本ならば勝てるという厳然たる線引も目を引く。ここ数週でブラスターおよび3ライダーの連携で返り討ちにし、一見すると驚異度が下がったドラゴンオルフェノク。だが、それでも二人がかりまででは、仇だと気合を入れ直しても勝つことはできない。特に草化にとってはなおのこと憎いわけだが、それでもだ。

 

 

 さて今回使用2回目となったブラスターフォーム。ファイズとホースオルフェノク二人がかりでも押し込めない強敵バットに使うには十分だ。

 ブラスターはここぞというときにしか使われない。その理由を自分なりに考えてみたのだが、555という作品はベルトの奪い合いが話の起点であり、アイテムが手元で実体化とか腰辺りからなんとなく取り出すという演出をやらない。エフェクトを伴った出現シークエンスにしろ、腰のあたりからにゅっと取り出す演出にしろ、大きくて面倒な武器を扱うために他の作品はどちらかを取っている。だが555はそのどちらでもない。だからファイズブラスターがあんまりでなかったのも手元に召喚できない作風であんなかさばるものはよほど強敵じゃない限り不便で使いたくないということではないだろうか。

 演出面でも戦闘中にとことこ取りに離れるのはダサいし、主役のファイズが離れるのは殺陣としても大変。かといって投げ渡すのは話も佳境だから啓太郎がそばにいないときも多い…と中々絵面に苦戦しそうだ。

 

 演出といえば、今思うと555って所謂ヒーローの強化変身を本当に減らしてたんじゃないかとも思う。勿論2003年の時点でその類の形態を一切出さないというのは不可能に近い。だから当時の中でのできる限りではあるが。

 それは、強化フォームのデザインを見るに「ヒーローの鎧がぐにゃぐにゃモーフィングするパワーアップは今年はやりません」という形で試していたのではないかなと。アクセルはほぼ純粋に機械的な変形しかしない。ブラスターも色は変わるが形状はさほど変化しないし、初変身時も全く新しい鎧を電送される形だ。

 オルフェノクがぐにゃぐにゃ変異する存在の典型だし、それとの対比もあって(当時のできる範囲で)不思議な変異を減らして変形などサイバー感のある演出を試行していたのかもしれない。