フラギイのメモ

Twitterで書き散らしたことを体系化しようとした。

仮面ライダー555感想:25,26話

 

オルフェノク、デルタギアそれぞれの力に溺れる人たちが出てきている。根源は違えど力そのものが導いてくれるなどということはなく、それを道具として制御できるか否かにすぎないドライさが描かれている。

 

 力に溺れるラビットオルフェノク小林。海堂と対照的なのはもちろんだが、ファイズアクセルという力を得ても何も変わらない巧とも対照的なのが興味深い。かつて小林に教えた指を弾いての変身を再度する海堂。与えてしまった影響に対する責任を自分の中で再確認し外部へ表明しているのだろう。相手へは伝わっていないだろうがそれでもやるのが海堂という男なのだ。

 しかし、今回は海堂は善意でやっただけに彼にとっては災難な部分もある。たしかに彼のちゃらんぽらんな物言いが焚き付けてしまった部分はあるが、同時に彼のその楽天的な明るさが落ち込んでいた小林の心を勇気づけたのも間違いない。どんな物事にも長短両面があるが、海堂の物言い・スタンスのその両方の作用をもたらした例だろう。

 小林もある意味では不幸だと言えるかもしれない。かつてスネイルオルフェノクの例であったように、オルフェノクの力を使って成したい目的などないのに、ある時その力の強さに魅入られて殺人に踏み込んでしまった例がある。目的を持って作られる改造人間とは異なりオルフェノクの力そのものに目的はない。オルフェノクの生誕過程故に怨恨などが付随したり、スマブレに唆され目的を掲げることはある。それ故に小林の例は、怪物になってしまったことから勇気づけられて絶望から脱したものの、勢い余ってそのまま人としての理性の範疇からも脱してしまったということだろう。勇気づけられたいいが行き過ぎてしまった…バランスが難しい。

 木場も海堂の意思を汲んで最初は殴られているのを見守っているが、ラビットオルフェノクが武器(殺意)を取り出したら止めに入るのが粋だ。

 

 

 そして、同じく人を溺れさせる力としてのデルタギア。オルフェノクの力もベルトの力も人を惑わすという点で結ばれている。どうやら中毒性のようなものがあるようだが、沙耶なる人物はそれに惑わされない人間であるらしいので、それに打ち克つことも不可能ではないらしい。変身そのものに判定が存在するファイズ、カイザに比べると使用は誰でもできるがその高揚感に耐えられるかどうかを試すデルタギア。まさにオルフェノクサイドと同じことが試されている。

 

 そして今回、人を変えるとされる力がもう一つ。それは権力だ。

 琢磨曰く権力を持って変わってしまったという村上社長。たしかに芸術品になぞらえ、「芸術品のように人も0か100のどちらかでしかない(お前ら今の所0の方だぞ)」と嫌味を言ったり、ラッキークローバーに新人のお守り等という仕事をさせて、遠回しに相手への評価を下方修正してることを言外に告げるようなことをしている。

 しかし、村上の件に関しては権力に溺れるというより、立場が人を作るという言葉が適切なように見える。前回から村上とラキクロで意識の違いが見えてきている。村上は草加から様々な情報を引き出そうと交渉しているのに対し、自らのプライドから草加を攻撃した琢磨影山の姿が象徴的だ。ラキクロがスマブレ本社の外にいる互助組織であるのは確かだが、それ以上に村上の目的としているのはオルフェノクの勝利・安寧だ。彼の心情としてはスマートブレイン社長である以上に、オルフェノク全体のリーダーであるという責任感・重圧が先行しているのだろう。

 そんな村上の基盤の弱さを示しているのが、花形前社長だ。ベルトを奪い、地下で実験していたオルフェノクが流星塾の父でありスマブレ前社長。何故あそこにいるのだろうか。スマブレの地下にいるのに村上が手をこまねいているあたり、閉じ込められているのではなく、好きに出入りできる。もしくは前社長しか把握していない構造があって居所を特定できないといったところだろう。いずれにせよ村上は前社長と接触できそうな距離に居るにも関わらず捕まえることができず、スマートブレインのことさえすべてを把握しているわけではないのだ。

 

 

 

 

555&オルフェノク

 花形より渡されたカイザポインター。相手の鳩尾へ真っ直ぐ蹴りを入れ、悶えている間に拘束弾を打ち込むダーティな戦法は草加のキャラをよく表している。

 このツールの入手に当たって、草加は父からの戦いを促す声に誘われるような演出がある。ファイズアクセルが純然たる道具としてドライな演出をされていたのと対照的に、カイザポインター草加の父との因縁や戦いへ身を投じるような囁きなど、単なる力としてだけでなく付加価値のようなものが演出されている。そして、それは不穏なものを感じさせる。こうなるとファイズアクセルの素っ気なさの方が安心できるのだから、にくい演出だ。

 

 今回のゲスト、フロッグオルフェノク。面白い力を持っているが河内を命を奪ったのは使徒再生ではなく腕力(首の骨を折ったのだろうか?)だったあたり、オルフェノクの力を使うことには積極的出なかったことがうかがえる。そもそも噂の新人に襲われ、気が動転していたようなので災難としか言いようがない。

 

 

 そして、1話から姿を見せていたゴートオルフェノク。ヤギの角だけを記号化し、呪術の儀式に使うような仮面と融合させたデザインが過不足なくまとまっており魅力的だ。ストレートに強そうではないが、決して弱そうには見えない。この掴みどころのないデザインと、琢磨ファイズと景山カイザを武器や特殊能力ではなく純粋な格闘戦で圧倒するところが合わさって、底が見えなず図らずも村上の言った“這い上がれないほどの深淵”を感じさせる。

 

 

仮面ライダー555感想:23,24話

 

 

 草加雅人の本性が描かれる回。彼の本性とは他人を陥れる権謀術数ではない。むしろそことは真逆で劇中人物の中でもかなり直情径行かつ激情家なところだ。頭に血が上ったときの向こう見ずさは、巧よりよほど上で有るくらいに見える。

 前回、真理が木場へ好意を持っているかもしれないの聞いたとき、その後の見通しも立てず、ただ居ても立っても居られない気持ちに突き動かされ彼に会いに行った。そして、目的もなく話が進まない草加と困り果てている木場。この二人の空気はラキクロが襲ってきてくれたおかげでなんとか有耶無耶にできたものの、このときの草加にいつもの狡猾さが無いのは明白だ。 

 木場がファイズについて誤解(とも言い切れない具合の解釈なのが厄介だが)していることを掴んだものの、この2話でそれを上手く利用できているとは言い難い。特になにかに利用するでもなく、ラキクロと共に木場を襲っている。

 今回真理に行った妄執じみた告白の内容も衝撃的だが、ここはあえてそのタイミングに着目したい。ここまでの草加のアプローチが効果を上げているようには見えない。そしてそれを草加雅人本人が自覚していないとは思えない。では何故、今回行動に出たのかというと、その直前に答えがある。村上や影山に自分の過去に触れられそうな場面がある。断片的な映像でしか語られないのが、彼の精神の不安定さをよく表している秀逸な演出であり、彼はいつもの嫌味な笑顔を見せる余裕もなく取り乱している。そして自分の中で暴れる恐怖・不安を押さえつける錨を失った勢いそのまま、衝動的に真理への告白に踏み切ってしまったというわけだ。

 また、今回ベルトが奪われたときに生身で真っ先に向かっていったのも草加雅人であることも注目ポイントだ。

 これらの描写から、草加雅人という人間の本性は権謀術数に長けた怜悧な男などではなく、むしろ激情家であることがわかる。

 

 

 そんな草加の異常な吐露にも真っ先に真意を探って気遣う巧の優しさ、懐の深さが際立つようになっている。あれだけ自分を陥れようとした草加へ積極的に話を伺おうとする。かつて、草加一郎との人違いエピソードで、草加雅人ととことんすれ違う真理に対し、やたら縁がある巧という描写があった。もしかしたら、本当に草加雅人を救えるのは乾巧なのかもしれない。当人同士(少なくとも草加の方)は決して認めないだろうが…

 

 

 オルフェノクサイドも様々な描写がある。ファイズへの憎しみを募らせる木場。今までファイズが同族や人間(と思っている)友人を襲い続け、敵愾心が積み上げられてきたところへ、それと同システムのカイザが自分を明確に攻撃してきたのだから、当人にしてみたらもはや決定的に思うのもやむなしだろう。

 今回、絶望をしていた小林を助ける海堂。真理絡みでろくでもない場面ばかり続いたが、ここで“根は良い人”のポジティブな面を見せてくれている。ただし、真理に対しても小林に対しても相手のことなどお構いなしに突き進むという点では同じなので、それは一つの要素がもつ複数の側面ということなのだろう。

 

 

 

 

 スマートブレインサイドから提示された情報である「ベルトはオルフェノクのためのもの」という設定だが、それと同時に人間が変身できる例外ケースもあることが示唆された。あの草加雅人が変身できるのだから、やはり変身可能条件は「優れた身体能力」などであり、たっくんもそれに該当するのであろう。

 では地下で実験しているオルフェノクはやはり村上派なのだろうか?それともこいつがその”王”なのであろうか…?

 

 今まではオルフェノクの中で木場たち穏健派や村上たち急進派といった派閥の争いが見られたが、今回は一つの派閥の中でも考え方の違いが浮き彫りになった。それは村上一派の中でも、組織人として功利を得ようとする村上と自らのプライドが最優先のラキクロの違いだ。琢磨影山がカイザを襲ったのは深い計算があったわけでなく「俺たちオルフェノクと対等ヅラなんて許さない」という感情によるものだ。ラキクロは名目上は村上の協力者であり命令系統にあるわけではないとはいえ、村上の目論見を完全に無視して自分たちのプライドを守ることを優先した。これに怒った村上は

いつもならバーに赴くところを、今回はラキクロを自分のオフィスに呼び出している。こうしたちょっとした行動でそのときの心情を表している資格表現も見事だ。

 

 

 

 最後に海堂たちがとんちのようなやり方でベルトを奪ったのも面白い。スマブレも巧側もベルトを公にして対外的に説明するわけにはいかない。だから、法的手段でとり返したりはできず互いに力ずくで奪い合うしかないわけだが、そこへ今回のようなやり方を持ってくるのは海堂のキャラ性の表現にもなっている。

 

 

 

555&オルフェノク

 

 今回登場したゲスト怪人の二体はどちらもモチーフの表現に一捻りが有って興味深い。ワームオルフェノクは土葬された遺体の中を進むミミズを表している。一方ラビットオルフェノクは比較的そのまま動物を乗せているが、ウサギはウサギでも耳のたれたロップイヤーを選んでいるのが個性的だ。前回のシーキューカンバーといい、モチーフの乗せ方が他のライダー怪人とは明らかに違うのが目を引く。

 

  ドラマ面では迷いや葛藤を見せる草加=カイザだが戦闘面においては逆に器用さを見せている。ファイズより遅れてラキクロと遭遇し交戦するわけだが、既にある程度対応できている。また、ホースオルフェノクとの咄嗟の連携もこなすあたり、(ベルトがうばわれるレベルのアクシデントでなければ)私情を一旦脇に置くことができることが伺える。

 

 ファイズとカイザといえば見事な連携のイメージだが、よくよく追って見ていくときちんと連携しだすのは20話を超えてからであり、それまでは別行動などによりタッグを組む場面などないのだ。草加が心の傷(と思しきもの)と妄執を巧に曝け出してから連携し始める形であり、ひとつの心情表現にもなっている。

 とはいえ、これで巧と草加が全面和解というわけには行かないであろうと思わせる“食わせ者”ぶりがこの番組の面白さである。

 

仮面ライダー555感想:21,22話


 今回は主人公・巧から、木場・真理・草加へのそれぞれ違う形での信頼が描かれている。

 まずは木場。彼とは少しずつ打ち解け合いながら今回に至ってともに危機を乗り越えた。それが真摯な友情となりつつある。それが色濃く現れているのが木場に素直に名前を名乗る場面であろう。巧はあまり名前を教えたがらない。多くの人物が彼の名前を知るのは書類を覗いてだったり第三者の紹介越しだったりだ。他人を裏切るのが怖いと言ったことからもわかるように、彼にとってパーソナル部分を他者に開放するのはとても難しいことなのだ。
 また木場から巧への感情も同様だ。“ファイズ”への憎悪が膨れ上がっていく木場だが考えてみれば当然だ。ファイズは「同族の仇」としてだけでなく、今回の話で「最近できた友人(巧)をも襲ってきた存在」なのだ。ファイズが現れたということは同族や巧を殺害したあとなのではないか、と懸念する気持ちが沸き起こるのだろう。今回のさりげない配慮としてオルフェノクという単語を使わず巧を気遣う木場も見どころだ。 

 

 真理と恋愛について駄弁るときのフランクな友人感は木場とはまた違った形の信頼だろう。木場に対しては熱い気持ちを抱くがゆえの「対等で居たい」という張り合いや力みのようなものがある程度見て取れるが、真理に対してはそういったものは見受けられない。「自慢ですか」と茶化す巧と、それを受け流しつつ自分の恋愛事情をあけすけに相談する真理。既に旧き友人のような気のおけなさだ。
 

 そして、最後に草加だ。草加に失態を隠さず伝える巧の姿は、これもまた一つの信頼感の形だろう。確かに二人はお互いに行為など抱いていない。草加が帰ってくるとしれば露骨に面倒くさそうな顔を隠さない。だが、それでも戦士としての実力は評価し、忠告をするのだ。実際、草加は琢磨・影山に対しては遅れて遭遇し今回が初めての交戦となる。その中で倒すとはいかずとも対応できている。巧が信頼にするだけのことはあるのだ。


 巧が3人に向けるそれぞれの形の違う信頼。今回目を引くところの一つだ。 

 そして巧に関してもう一つ。彼が店長を見逃したことだ。これに関しては以前の回で描かれた戦う罪を別の視点から表したことだと言えるだろう。作品世界に生きる一人にすぎない巧が得られる判断材料は限られていると前回までの感想で書いた。命を奪う判断に値する情報を探していてはまた別の命が奪われる。そんな事態を見過ごすくらいならばそれを背負って相手を手に掛けるのが戦う罪だ。ならば、「良い怪人は見逃す」と判断することもまたやっていることは同様と言える。人生の中で、たまたま善行しているところを目撃しただけかもしれない。今後もそうし続ける確証はない。それでも自分が良い怪人だと判断したら、その後も平和に生きてくれることを願って見逃す。言ってしまえば不公平なわけだが、その不公平を背負うのも「戦う罪」の一つなのだ。

 
 草加雅人については意外な面が見えてきた。それは権謀術数を張り巡らせる普段彼を見ていると考えられない激情的な面だ。真理が木場を好きかもと言ったら、居ても立っても居られなくなり無策で彼に会いに行く。「自分でもどうしたいのかわからない」と言う言葉はおそらく本音だろう。オルフェノクが襲ってこなかったら、あのいたたまれない空気をどうするつもりだったのか。そんなところにちょっとした可笑しさと草加の人間味を感じるのだ。

 

 一方でスマブレサイドのラッキークローバーの補充問題について、村上と琢磨・影山の間で温度差のようなを感じる。もしかしたら村上はラキクロを刺客としてだけでなく、同族のためにオルフェノクの優雅な生活のモデルケースとして広報したいのだろうか?人材アピールの場にも使いたいが、当のラキクロたちは自分たちの現状に誇りを持っており安易な新人を入れたくないと言ったところだろうか。

 

ファイズ&オルフェノク

 今回新登場となったアクセルフォーム。これまで苦汁をなめさせられた琢磨・影山への反撃の景気となっている。特撮表現も2回とも異なるもので視覚的にも楽しい。またゲストオルフェノクがなすすべなく倒されるのに対し琢磨影山は防御できているところで実力の違いがわかる。
 ファイズアクセルの登場はあっさりしているがおそらくは意図的なものだろう。ラキクロ二人への反撃と前述したが、それ自体は強化のおかげで難易度が低くなったという手段の話でしかない。ピザ屋店主を見逃すのも別にノーマルで戦闘していても同様に見逃しただろう。巧が何かを考え方を変えたからファイズアクセルを入手できたわけでも、ファイズを得たから考え方を変えたわけでもない。ノーマルでも同じことをするだろうが、アクセルのおかげでちょっとだけ目的を成しやすくなった。そんな感じだ。
 アクセルは純然たる道具に過ぎないということを強調しているのだ。これは力は力でしかない、何かを導いてくれたりはしないというドライさと同時に、巧は力に溺れることもないということの証左でもある。(かつてのカクタスオルフェノクなどは、ファイズに変身して憂さ晴らしに同僚を手に掛けるという“力に溺れた例”であろう。)

 

 ホースオルフェノクと戦っているとやたら助けに来てくれるオートバジン。ラキクロのような明確な格上よりも、同格のほうが泥仕合に長引きやすいので、結果的に強敵と学習しているのだろうか? 
 今回はホースオルフェノクは派手な動きが多いためたなびくタテガミが印象に残る。初期平成ライダーの怪人は質感の問題からか、着ぐるみにもそのままの毛は使わずモチーフの体毛は鎖や棘などに置き換えて表現するイメージがある。ホースの場合は馬の地毛、鬣というだけでなく兜の装飾でもあるためそういうものとしても見立てられるので、馬の鬣そのものを質感再現しなくても違和感なく見ることができるということだろう。

 
 今回は変身前でのアクションが多かったが、木場がスコーピオンに殴られているところを幸いにも巧に見られていないため、異常な耐久力にも疑問を抱かれないのは上手い。
 ドルフィンオルフェノクはイルカの流線型・曲線的な姿をモチーフとしており、店主の温和な人柄をうまく表していると言えるだろう。どちらかというとゆったりした衣服のような外皮は、いかにも鎧と言った姿のスコーピオンと好対照だ。

 

 

 

仮面ライダー555感想:19,20話

 初期の数話では。巧と真理を振り回していた啓太郎だが、以後10話以上は逆に彼らに振り回される啓太郎という図式が多くなった。そしてこのエピソードでは再び啓太郎が主導権を握っている。構図は同じだが、今回が最初の時分と異なるのは、視野狭窄な使命感に燃え上がるのではなく、真に恵子を思いやる気持ちによるものだ。”顔のない大勢”のためではただ気持ちが空回っていたが、助けたい相手が明確になる事ですべきことが明確になったのだろう。それは啓太郎も幾度もの戦いを目にする中で成長した証なのかもしれない。

 村上はジェイの庇護がなければチャコは生きていけないといったが、恵子と巡り会って新たに生きるアテを見つけた。運よく別の飼い主に拾われただけではあるが、そういった運の要素もあるからこそ生きる上では何が起こるかわからない、他人が誰かを生きることはできないと断定することはできないのだといっているように見受けられる。そして、恵子もまた九死に一生を得た子供だと一方的にスマートブレインの計画に利用されそうになっていたのだがそれも前述のとおり、阻止された。村上の目算は2つも破られたのだ。一人のライダーと一人の人間によって。

 

 

 

 今回はそんな啓太郎をはじめライダーサイド、オルフェノクサイドともに笑える日常場面もよく映されている。啓太郎が真理を狙っていると思いこみ、応援する巧。長田を忘れられるなら良いという善意がある分余計に笑える。その際机の下で足を足で掻く真理の生活臭を見せるのも更に笑いを増している。オルフェノクサイドでもせき込み始めた二人から微妙に距離を取り始める木場も面白い。彼らは超常の問題に挑む者であると同時に年相応の生活を送る者であることが現れている。きっとその二つの間にはきっちりとした境界線といったものはないのだろう。 

 木場と巧の交友も少しずつ進んでいるのだが、そうやって巧に興味を抱き始めている段階で、ファイズが巧を踏みつけている場面を目撃するものだからより一層ファイズへの憎しみを強固にしてしまっている。

 そういえば今回はオルフェノクであっても病にかかることが明らかとなった。長田・海堂よりも真理・啓太郎の方が具合が悪そうなので、体力差分の余裕はあるように見受けられるがそれでもバイトに行けないほどの疲弊はしている。

 

 今回面白い掘り下げがあったのは琢磨だ。彼は戦闘そのものでは負けていないのにどうも落ち着かない様子。自分で言っている通り、仕事を進めるペースは自分で決められるのだから気にする必要はないのだが、仕留め損ねたというだけでピリピリしている。幹部怪人なのだからいずれはライダーに負けるのだろうが、負け始めてからわかりやすく崩れ始めるだけでなく、この段階からキャラの掘り下げがなされている。

 彼が「ラッキークローバーはあくまでも村上の協力者で合ってスマートブレインの人員ではない」と強調することで彼のそういったところにこだわる神経質さと、本来の関係性を踏み越えようとする村上の急進性がわかる。

 また、仕事そのものは普通に戦いを仕掛ける琢磨と異なり、わざわざ最後の晩餐を送り付ける影山は彼以上の残虐性を秘めているように見える。

 

 

 

ファイズ&オルフェノク

 オートバジンが厄介と見るや、疾走態へと姿を変えるホースオルフェノク。単純な移動形態ではなくバイクに乗ったライダーと互角に打ち合う格闘能力を見せる。おそらく人型ほど小回りはきかないので普段の肉弾戦では使わないのだろうが、ライダーとの騎馬戦に対応できる能力を持っているところがライバルらしさを強調している。そしてそんなホースを同じ剣技で押すロブスターオルフェノクの実力が示されている。ロブスターオルフェノク甲殻類の外殻を鎧に昇華したデザインが見事だ。騎士のようなデザインだがホースとは与える印象が異なっている。

 今回、決着となったクロコダイル。姿は最終形態のままだが武器は最初のバックラーを使っている。やはり剣より打撃戦が得意なのだろうか?今回クロコダイルオルフェノクへのトドメとなったグランインパクトへのつなぎ方は秀逸であった。そもそもグランインパクトは単体では拘束ビームを出さない分、技としての個性や見ごたえに劣る。単発で使っても他の必殺技演出の下位互換にしかならない。では、グランインパクトが光る場面、そしてそれに連なる個性は何だろうか。それは欠点と表裏一体。拘束ビームを撃たないボリューム不足の裏返しとして技の出の速さ、準備動作の少なさにあるのだ。それを生かすには連携の中でこそ光るのだ。

 

 どう見てもジェイほどの核があるようには見えないスコーピオオルフェノク。それでもあっさりオルフェノクを一人殺害したのも事実だ。本当に実力を隠し持っているのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。

 ちょっと想像してみるが、人が人の命を奪うのは(彼我に大きな年齢差などがない限り)殺意さえあればそう難しくはない。同様にオルフェノクオルフェノクを殺すには、戦闘能力差よりも殺意の有無によるところが大きいのかもしれない。ラッキークローバーが上の上と呼ばれるのは、オルフェノクの支配体制を作るためには同族の命を奪うことさえ容易いその冷徹さを示しているのかもしれない。

 

 

仮面ライダー555感想:17,18話

なぜオルフェノクを倒すのをためらうのか

 これはまず「目に見える範囲で命を奪う判断を下していいのか」ということだろう。前回の長田の人助けと殺人の両方を見たことですべてのオルフェノクに人の良心が存在しているのではないかという懸念を抱くことになった巧。こういった問題に対して、視聴者は「良い怪人だけを助ければよい」という結論を急いで下しがちだ。それは神の視点で、登場人物よりは多くの情報を得ているからであろう。しかし巧の視点から見た「良い怪人」の基準とは何だろうか?どれだけ判断材料を集めればいいのだろうか?もしかしたら何人も人間を殺めているオルフェノクが気まぐれに善行したところを偶然目撃するかもしれない。今まで率先して人を守っていたオルフェノクに少し魔がさしたところをたまたま目撃しただけかもしれない。ある一場面を見ただけで命を奪っていいのか。いや仮にその人の人生すべてを知ったからとて自分が捌く立場にあるのだろうか…。

 

 

オルフェノクを倒すことの是非

 結論から言うとこのエピソードでは書かれていないと思う。まあこの作品はそういった結論を作中の正解として出すことはこの先もしないだろうが。555という作品は人物の出会いや怪人の力については偶然や「そういう能力はそういう能力だ」と割り切るところがあるが、人物間のぶつかり合いや、特定の人物の主張が作品世界における正しさに直結してしまわないように等…そういったものについては安易に固めてしまったり意図せず偏ったりさせてしまわないような繊細さを見て取れる。

 巧について見てみると、彼は最後までオルフェノクの命を奪ってもよいのだろうかという疑問に対し答え(悪く言うと罪悪感を軽減するための言い訳)を出せてはいない。だがそれでも「罪を背負う」という形で、納得できないものを飲み込んで戦うことが出来る。

 木場の方は、己の罪の意識、正しさ…そういったものに対する答えを求めて動けなくなってしまっていた。己が正しいという立場で戦えたオウルオルフェノクに対してはあれほど勇敢であったのに。これは木場の潔癖さや誠実さが別の形で現れたといっても良い。森下から千恵の遺品を渡されたときも、そのまま受け取って「俺しーらね」と適当にしまい込んでしまう卑小さがあればむしろ角が立たなかったかもしれない。彼は背負えないものを突き返す、ある意味での正しさを見せたことでかえって森下はかたくなになってしまった。人物の持つ面がいろんな形で作用する多面性を描いているといえる。

 こういった描写から見えるのは、この回で語られているのは「オルフェノクを倒していい基準はどこか」「倒していいオルフェノクとは何か」ではなく、「答えがわからなくとも、納得できないものがあっても並行して動けるか」ということなのである。ジレンマは終わらないのだ。無論、たっくんが語った罪を背負ってでも戦うという言葉。その罪が彼に降りかかるときがきっちり来る未来もあろうということも含めてだ。

 

 18話では一連の話に一区切りをつけた後の単独エピソードの趣があるが、その中でも啓太郎の善性やスマブレの王に対する試行錯誤が続いていることなどを視聴者にアピールしている。スマートブレイン前社長が孤児を1か所に集めていたのに対し、村上社長は方々を探し回っている。アプローチは違うが見通しは同じといったところか。

 また、木場の中でファイズの存在が敵として認識されているままであるのも引き続き見せられている。彼にとってはオルフェノクの方が身近な存在でありファイズが異形の鎧の戦士なのだ。しかも海堂から得られる情報もどう解釈しても「オルフェノクの命を奪うことを使命としている」というものだ(しかも行動パターンに対する認識だけなら現状の巧のスタンスとなんら齟齬はない)。まずファイズをとめるという行動に出るのも自然なことであろう。

 

 

ファイズ&オルフェノク

 今回登場したアルマジロオルフェノク。その装甲で守りを固めた姿は妹像を守ろうとする心象の表れなのだろうか。使徒再生であり、なりたてにも関わらず武器を二つも精製できるその強さは妹像を守る意志の強さの表れなのだろうか。

 複雑な背景を持つアルマジロオルフェノクと、そういった背景もなくただ力をふるうフライングフィッシュオルフェノク。その二人を同時に相手取り、どちらとも対等に戦うファイズの絵面は、「人に害成すのならどのような者であっても戦う」という巧の心情を表現しているといえるだろう。

 もう一人のゲスト怪人トードスツールオルフェノク。あくまでスマートブレインの刺客の一人でしかないものの、街中を大道芸のピエロとして徘徊し子供を追いかけるのはかなり不気味だ。それでいて怪人体はキノコと虚無僧を融合させたような無骨な出で立ちなのも面白いギャップがある。

仮面ライダー555感想:15、16話

 前回のダブル水落ちによる交換留学で双方のキャラの性格や見通しを掘り下げている。555は、こうした運やめぐりあわせによる邂逅や事件への遭遇が多いのだが、それは人物の心情に愚直なまでに誠実でありその人物の行動様式・性格を超えて事件や見知らぬ人物に会いに行くことはしないということだろう。その上で、偶発的に起きた事件事故に対しては人物のリアクションを描き掘り下げに利用している。

 前回木場のピンチに逃げてしまった海堂がなんとか彼を助けようと動き回る場面などがそうだろう。

 

  巧との交流を通して描かれた長田さんの善性。たっくんが戦うのを迷ったのはきっと、長田が人を殺めるところと人を助けるところ両方見たからだろう。彼女が人を助けるところだけを見たならば、長田だけが特例と割り切れたはずだ。しかし他のオルフェノク同様人を殺めるところも見てしまった。だから彼女の善性を認めつつも他のオルフェノクとの共通点も見出し、ひいては他のオルフェノクにも善良な心があるのではないかと考えを拡大していってしまう。

 そんな長田が発した「海堂を好きでいる自分で居たい」。人間の様に恋愛に夢見る生活に追落ち着きたいということだろうか。であるならば彼女は真に海堂が好きというより恋に恋している、そんなことができる平和な暮らしに根を下ろしたいという憧れなのだろうか。考えてみれば、オルフェノクとして覚醒してからスマブレとの接触、海堂のフォローと忙しい日々を送ってきた。ここでようやく彼女にも改めて身のふりを考える落ち着きが出てきたのだろう。

 人間だったころは日々の苦痛に耐えるだけで精一杯だった彼女に、オルフェノクになってからそういったものを考える余裕ができたのは何とも皮肉だ。オルフェノクになって失ったものが多い(と本人は認識している)木場と比較すると、少なくとも彼女を攻撃されるばかりだった境遇から多少なりとも自らを守れる状況になったといえる。オルフェノクになったことで他人を助ける力を得て、今後を考える余裕が出てきたというならば誰がオルフェノクの力を責められるだろうか。

 

  そんな彼女とのスタンスの違いが見受けられるのが木場だ。勇敢にもスマブレに立ち向かおうとする彼を後から追いかけてくる過去。「無理だよ俺には…」と吐露する彼の姿は悪のスマートブレインに立ち向かう勇敢な戦士から、怒りで人を殺めてしまった一人の人間に戻ってしまっている。もしかして彼はそんな過去を切り離し非日常の世界で戦う戦士として生きたいのではないだろうか。人を襲う怪物でありたくはないが、過去の人間臭い感情の発露から殺人に手を染めてしまったときにも戻りたくはないという板挟みなのではないだろうか。だとしたら日常に根を下ろしたい長田とは真逆だし彼女と人間観ですれ違うのもわかるというものだ。

 

 

 

 

 

 一方で人間サイド。オルフェノクとは知らずとも木場に辛辣な草加。木場は自らのコミュニティに属する存在ではないとはいえばれない自信があるのだろうか?それとも取り繕う気も起きないほどに単に木場とはウマが合わないことを感じているだけなのだろうか?そうだとするならば、草加という人間は印象以上に根は直情的で、感情で物事を決める人間なのかもしれない。「俺を好きにならない人間は邪魔だ」という名台詞には、案外権謀術数だけから言葉ではなく、純粋に己の心情から来ている部分もあるのかもしれない。

 

 また、草加オルフェノク人間性を気にしないのはやはり彼らの出自を知らないからか、それとも流星塾の件絡みで知っていて彼らについて何かを知っておりそれで嫌悪しているのか。謎は深まるばかりである。

 しかしそれはそれとして、菊池家にきて本性を表してからやりたい放題の草加は見ていて面白い領域だ。真理や啓太郎から見えない角度でほくそ笑むなど、やりたいことが明確な”草加節”はいっそ清々しくある。

 

 

 

 さて、そんな草加とついに直接対決にまで発展した巧。ただ、その事態にまで発展した経緯は少々複雑だ。

 巧は流星塾生ですら見抜けない草加が秘密を抱えている事実の存在に気付いている。その上、普段の草加の役者ぶりに手を焼いている。そんな相手にクレインオルフェノクの事情を話したところで聞き入れてもらえないどころか、事実を利用されクレインに危害が及ぶかもしれない。真理と啓太郎が丸め込まれて孤立無援の状態では自分が汚名を被るしかない。巧ならそんな自己犠牲的な選択を取り得るのはこれまでのエピソードを見れば明らかだろう。

 一方で草加も巧が唯一己の秘密を察しつつある状況にいる。他の奴らと違って巧は油断ならない、只者ではないと認識している。しかもファイズは自分の攻撃したのではなくあくまでクレインを助けたことをいの一番に察している。つまり草加側も巧に考えがあっての行動なのを知っている。それを踏まえてなおああいう行動に出ているのだ。

 この二人は互いに、「こいつには何か抱えているものがある」と踏まえてなお対立を選んだのだ。ただ、それを選ぶ理由だけが違っているのだ。

 

 

 ちなみに二人の対立の演出で面白いのが食事シーンだ。朝食の場面を見ると草加と巧は別メニューを食べている。もう少し突っ込んでみると、真理啓太郎草加が和食を食べているのに対し、巧だけがトーストを用意している。対立するにしてもうまく立ち回る草加と一人孤立する道を選ぶ巧の差が良く表れている。

 カイザを襲った巧を糾弾することに躊躇を見せる啓太郎。なんだか巧に対する信頼ができてきている。

 

 

 

ファイズ&オルフェノク

 クレインの使徒再生が初披露。鳥モチーフではあるが、翼が背中ではなく腰から生えている一工夫が見ていてフックになる。生まれついての鳥人ではなく人が後天的に得た力なので、跳躍や短時間の飛行はできても自由自在に飛べるところまでは至っていない。そんなバランスを感じさせるデザインだ。

 

 ゲストのフライングフィッシュはマンティスの流用スーツながら最小限のパーツでトビウオのヒレを表現しているのが面白い。木場やラキクロ並みに強いというわけではなさそうだが、武器を生成したりカイザからうまく逃げおおせるなどそこそこ戦いなれしてそう…という絶妙な強さを表現している。カイザとの殺陣の中では、草加の技巧者ぶりを引き立てる見事な斬られ役であると同時に、だが簡単には倒されず自身の能力を使って引き際を見定める見せ場も持っている。強すぎず弱すぎず、それでいてアクションも映える絶妙なゲスト怪人ではないだろうか。