フラギイのメモ

Twitterで書き散らしたことを体系化しようとした。

仮面ライダーアギト感想:第37,38話

本当にアギトが複数現れたら。そしてアギトやギルスのように個人の善性を頼りにできなかったらということが描かれた回。
同時に、過去に固執したまま道半ばで倒れたあかつき号メンバーたちであったが、彼らが変身能力開花まで生き延びられたらどうなるかを見せた回であるとも言える


翔一
 畑仕事に熱心な翔一。それだけならいつも通りだが「自分がいなくなっても菜園の世話を引き継いでくれないか」とこれまでの彼なら言わなかったことを言っている。今までの彼は自他の境界が曖昧だったり自分の領域が不定形であるため、そんなことを露とも考えなかったり、考えるだけ無駄だと最初から割り切っていたとも考えられる。しかし、今の彼は水のエルとの一件を経て、自己への執着を自らの一部へ昇華した。今は事故を超越しながらも、同時に固執する自我を持ち始めているということかもしれない。

 しかしそれでいて普段の翔一節は健在だ。取り調べでアギトであることを半端にはぐらかそうとして逆に言葉尻を取られたり、アギトだと正直に話したり。
 それにより北條たちのペースが崩されているところに彼の強みが健在なのが見える。至って真面目な場なのに、そこを翔一空気がするっと入ってしまうのだ。彼にも不定形なだけでなく自身の領域ができていると描いたが、それでも並の人間相手には彼の掴みどころなさで巻き込んでしまう力があるのだ。
 そして翔一が過去にあかつき号に関係していたのは水のエルの一件で明らかである。しかし、それを他の人物に知らせるときにただ話すのではなく、より興味を引く形で断片的に語らせるのがニクイ演出だ。

氷川
 ギルスが人間であることを知ってから、まだ見ぬアギトの正体へ期待をふくらませる氷川。そんなところへ、アナザーアギト=木野を目撃したことでアギトへの幻想が加速する。パトカーのサイレンを私用してまで協力している。それでいてアギトとギルスが共闘しているのを見ているため、今更アギトがギルスと争ったり葦原を探せという指示をだしてくることに対して怪しむところは自分の見てきたものを信じる芯の強さも垣間見れる。
 しかも小沢に津上と同じく括りに入れられたときムキになるあたり翔一への色眼鏡は依然健在だ。ただそれを小沢に面と向かって言うあたり、氷川もまた彼女にとって知らない一面を得て自立していっているということなのだ。



北條。アギト捕獲作戦が序盤より軟化している。人間性を持った存在(というか無辜の国民)に発砲するのは後々まずい問題になるのでこれは順当だろう。
 相手が人間性を有していることが明らかになれば、対処することそのものが面倒くさいことになる。だから、個別攻略の前に異形の存在を守るべき市民ではなく謎の怪物だと捉える基盤を作ろう、というのがのちの555で語られる対オルフェノク活動の一つだ。
 
 しかし、その推理力と集めた情報でアギトの正体に至る有能さと、それでいてちょっとしたハッタリで小沢に一本取られてしまう愛嬌のバランスが良い。この辺りが北條が愛されるキャラクターである所以だろう。

一方で小沢。純粋な人間など言葉の矛盾。これはこの作品でさんざん語られた「人は思いもよらない一面を持っている」「幻想の中で生きる」ということを別の形で言語化していることなのだろう。純粋な存在とはどこから見てもその対象の見え方・評価が変わったりなどしないということだ。しかし人はその時々で相手ごとに違った面や性格を見せる。それをしないなどほとんど不可能だ。だから氷川や翔一でさえ完全な純粋ではなく、まずまず純粋という落とし所になる。
 そんな小沢が発した「あなたがアギトでよかった」という言葉。もちろん人類にとって、が大意だろう。しかしどこか、彼女個人も安心しているように見える。思えば彼女は常に天才として高いレベルにおり誰もついてこれなかった。G3-Xの一件でさえ、他人を思いやるという成長はあったものの、それは彼女が周りのレベルに合わせることであり、誰も彼女のレベルにはついていけていない。しかし、厳密には翔一の底知れなさとは通じるものを感じていた。そういう意味では不安要素であるアギトがそんな仙人たる翔一であることを知り、彼女もまた同族を見つけたような気持ちになっているのではないだろうか。警察関係者の中で初めて彼女が翔一の変身を生で目撃するのも、因果なのだろう。

 彼女が今回アナザーアギトが今まで目撃してきたアギトではないと看破した理屈も見事だ。今まで何も要求してこなかったのに今更変だ、と。彼女はことあるごとに好き嫌いや感情論で物事を決めてしまえばいいと言っているものの、実際はこのように理詰めに考えてもおり、感情と理性の高度な融合を体現した存在なのではないだろうか。


しかし警察上層部が「アギトは人が変身した存在」であることを中々信じないあたり、この作品では変身ヒーロー番組というメタ視点を徹底的に排除していることがわかる。異形を見たら、まずそういう怪物だと思うのが普通なのだというのが徹底されている。

葦原
木野アギトに中々応戦しない葦原。以前の記事でも話したが、アギトにおけるライダーバトルは相手の人柄への憎悪や忍耐力不足ではない。あくまで互いを怪物としてしか知らないから起こる戦闘なのだ。なので翔一も氷川も葦原も、相手が人間が化けた存在だとわかれば素直に矛を収めるし再度ライダーバトルをすることもない。
 そんな中で、相手が人間と知りながら殺意を向けてくる木野は彼らにとっては、信じがたい脅威なのである。

 前回の感銘を裏切られ、死にかけているにも関わらず、木野が手術室でやろうとしていたことを誰にも言わなず一人で逃げようとするあたり、こんな些細なシーンでも葦原のお人好しさが発揮されている。 
 麻酔が途中で解けたのはギルスとしての力のおかげだろうか。以前スネークロードの力で落とされたときに変身して助かったり、超能力で溺死させられたときも死んでない部分が残っていたり、強力な力が負担をかけているが彼の身の安全自体は守ろうと作用しているのではないか。


あかつき号
木野
 医者のプライドにかけて手術は完遂する…かと思いきや手術室で葦原を殺そうとする。天才外科医と呼ばれるまでに弛まぬ努力と時間をかけてきただろうにそれさえ捨てる狂気を抱いていることが明らかだ。     
 彼は氷川と自分の噛み合わない会話から咄嗟に、自分が他のアギトと誤認されていることを察し見事に(その場は)騙す。しかし、かつて氷川がアギトとギルスが共闘していたことや小沢、北條など頭がキレる存在の助けもありすぐにバレることとなる。この流れの中に色んな人物の思考や判断が描かれ、探り合いが見られる。

 その上でやがて、アギトは自分一人になるので途中で嘘がバレることなど織り込み済みといわんばかりに動じない木野の底知れなさも描かれる。翔一と木野、底知れない存在という形容では同じだが、他者に与える作用は正反対だ。

真島
葦原を必死に看病する。自分の命を守ろうとしてくれた人物であるのも理由だろうが、これだけ怪物に襲われながらも警察やアギトに任せず自分で葦原を助けようとするのは彼自身の善性も大きいと言える。

沢木
自らを神を裏切った者という。こちらが真実なのだとしたら木野の語る神の意志とやらはやはり嘘なのだろう。


アギトの力の使い方を諭す沢木。その構図だけならまさにヒーローたちのメンターと言ったところだ。言っていることは間違ってはいないのだろう。しかし木野を激昂させるに終わるあたり中々うまく行かない。そもそも彼はあかつき号乗客の覚醒を早めたりしてきたが、あまり上手く行かなかったケースが多く、それどころか力を葦原に向け、貴重な戦力を減らしてしまったこともある。(そういう意味では彼が真魚に頼んで葦原を復活させたこともようやく数少ないプラス点といったところか)
 彼はどうも人間とアギトの強さを証明しようと躍起になっている節がある。彼の過去に関係があるのだろう。


アギト&アンノウン

 アギト以上にピンポイントにギルスヒールクロウ(の刃の部分)を防ぐアナザーアギト。これだけでも強さがわかる。この戦いでドラム缶がなぎ倒されたり、コンクリートの柱が粉砕されたり超人同士の戦いであることが、力を入れて表現されている。この作品は、ライダーバトルにはきちんと相応の理由があり、かつ行われるときは特撮表現にも一際力を入れられていることがわかる。


 さて、氷川が誤認したアナザーアギトの見た目問題。色んな説が飛び交っているが、私が考えるところでは、アギト本人がコロコロ姿が変わるためそのバリエーションの一つだと思われていたりしたのではないだろうか。なんにせよ、氷川が見た目ではなくオーラや戦い方で彼は自分の知るアギトではないと悟ることに意味があるのだ。
 また、アナザーアギトの複眼が他のライダーに比べると透明度が低く(クリアカバーの下の複眼パターン構造もない)、血のように真っ赤なのも彼の狂気を表しているようで素晴らしい。


 そんな連続ドラマ強まる中登場したフィッシュロードは、アギトグランドフォームを苦戦させるだけありG3-Xにも当然格闘戦で優位に立つ。ただG3も一方的に打たれているわけではなくデストロイヤーを持ち出し致命的な攻撃は防いでいる。こういうところでも氷川がシステムをものにしている描写と取れる。

 最後になるが、シャイニングフォームはあっさりでてきたが放送当時はゴールデン枠の一時間SPでお披露目をしていたので同じよう話をするのを避けたのだろう。もちろんSPやProjectG4は細部では本編との差異もありパラレルと取ることもできる。しかしのちのパラダイスロストなどのように大きく世界観は違わず対象層の子供やその親は普通にTVと同じような感覚で見ているため、基本的に同じものと捉えたこの判断はベターと言えるだろう。