フラギイのメモ

Twitterで書き散らしたことを体系化しようとした。

仮面ライダーアギト感想:第48,49話

大いなる戦いもほぼなくなり、その中で異能はどう己の足の置きどころを見出すかということが描かれている。

翔一
 自分の領域を持ち始めた翔一。それでいて相手の領域にするっと入り込むアンノウンぶりは健在。
 自分の生活の問題に悩む彼は今までありそうでなかったのでかなり新鮮だ。戦いや大いなる謎といった浮世離れした問題ではなく、一人の人間としてどう歩むのかが描かれている。47話以降において翔一はその物腰以外の、浮世離れした面は大部分が剥ぎ取られている。彼は大いなる謎にも自分がアギトであることにももう悩みはしない。だがその代わり、とても生活臭のする悩みに苛まれることになる。確かに本作は木野が死ぬ46話が純粋なテンションにおいては最高と言えるだろう。しかし、そこで終わってしまうと浮世離れした異能者が美しい自己犠牲で世界を救いましたという形で終わることになる。本作はそれを許さなかったのだ。壮絶な過去や異形の苦しみというものはそれに見舞われているキャラには当然悲劇だが、それを見ている我々視聴者にはとても魅力的に映る異世界の崇高な苦しみだ。だが、たとえ大いなる謎にも、およそ凡人には関係のない非日常な悩みに悲劇的に苛まれようとも、それが終わればいつかは彼らも食べて寝る生活の中で己の置きどころを見出さなければならないのだ。それはおそらくとても退屈な作業なのだろう。我々としても彼らにはヒーローとしての輝きや崇高な悲劇で悩んでいてほしいと思う。だがそれでも47話以降では彼らを“人間”として描く。我々と同じ泥臭い、生活臭のする存在として。

 奮起したもののやはり失敗が多くしょげている可奈に対しても、失敗しないようにのアドバイスではなく失敗しても構わず進めば良いと良い意味で神経が図太いアドバイスをするのも達観した彼らしい。人が怒るのはその人の領分、自分ではどうすることもできないから気にせず成長に神経を注げばいいという、今で言うアドラー的な考え方だろうか。以前、「世界は素晴らしいのに」と言って篠原佐恵子を強引に現実に引き戻そうとした頃からすると、彼らしい図太さを他人の境遇や見方を尊重することと両立できるようにいい方面に成長させているようだ。


氷川
 47話以降、警察はG3による対処療法から先手を打った対応を模索する方向に舵を切っている。ここに来て、アギトという言葉の指す範囲が個人から種族へ変わっているのが見て取れよう。
 北條の指摘は(彼も覚えているかは定かではないが)あかつき号の乗客に襲われるという実例がある。そういう意味では、小沢たちの言うとおり多少急いているはいるが、可能性のとしてはかなり高い話ではある。かつて泥棒がアンノウンに狙われたように、アギトに覚醒することに精神的な素養はあまり関係ない。また、アギトになったからと言って精神が聖人君子に変貌するわけでもない。今まで確認されたアギトたちが人に味方したのは幸運でしかないのだ。
 本作は最終的には自分の人生に活路を見出した者も多くいるが、前提にある世界観として「まともな人が異形の力を得ても(初めは)正常でいられるはずがない」というシビアな部分がある。唯一の成功例とも言える翔一は言ってしまえば、執着する自己を抜き取られたことで力にも己の境遇にも悩まずにスタートダッシュをきれた部分が大きい。それだけアギトの力は人が人の精神のままで背負うには思いということだ。

 まあ今回の顛末は、アギトが同族を守っているのは事実だが本心から言っているというより、今後の可能性を検証するため自説を演説ぶって話していたら何故か上司に拾われて引っ込みがつかなくなったといったところも大きいが。
 この場面、当然だがアギトは一人もいない。あくまで人間だけがそれぞれの言い分をぶつけ合っているだけなのだ。その立場になって苦しんだものはいない。だからどの論客の言い分も予測や願望に過ぎず結論が出ないのである。
 


葦原
 花の例えはもちろん成長なのだろう。だが私はこれにどこか老成を感じてしまう。数多くの修羅場を潜ってきた彼だが実はまだ大学生そこそこの年齢なのだ。普通ならこの手のキャラは戦いが終われば再び夢に向かって奮起することも多いだろう。だが彼は目的が無くても生きていけるという形に落ち着いたのだ。
 だが、夢がなくてもいいというのはニュートラルな価値観を表しているようであり、色んな生き方を認めてくれている気がして懐の深さを感じもするのだ。夢を目指すのも素晴らしいがなくてもいい。どの生き方が100%肯定されるわけでも無ければ否定されるわけでもない。本作はそういう価値観や見方に特定の正解というもの感じさせず、非常に繊細にかつニュートラルに描いているところが私はとても心地が良い。
 ところで自覚はしていないだろうが、リサの領域にするっと入り込んだ葦原は翔一と似てきているのではないだろうか。それが彼にとって望んだものか否か、前述の通り成長なのな老成なのかは不明だが彼もまた仙人じみた部分を見せている。
 翔一&可奈おなじ食事シーンでも彼は相手の料理の味をはっきりと断じている(本当にまずいのだろう)。だがそれを悪いとも嫌とも付け加えず事実だけを述べるのが彼らしい。





 人を滅ぼすと言いながら自分は目を閉じ、人間に自殺させる方法を取っている。やはりまだ人に未練があるのだろう。
 今回登場した地のエル。風との役割の違いにも明確に言及されており、それは「人間の滅亡とは別の、いつもどおりのアギト根絶の通常営業」だ。ただ合理性だけを考えるなら人類全体を滅ぼすのだからどうせその中のアギトも一緒に滅んでいくだろう。だがそれでもアギト殲滅を頑なに続行してるあたり、それだけ明確な敵意が残っている。

アギト&アンノウン
 現状打破の一手を打てない警察。彼らは自殺の原因はアンノウンと考えられないのだろうか?おそらく可能性レベルとしては思いついていると私は考える。だが、被害者は自殺したという目撃者がいる以上、アンノウンに断定的に結び付けることはできないのだろう。対象を自殺させるアンノウンという線も考えられるがそれを考えるよりかは、氷川の言う人類全体になにか起きていると考える方が自然というのもある。
 今回スポットがあたった蠍座は西洋の神話だ。神が人を創ったりするところも西洋風だ。その一方でアギト自身は武道の摺足で戦うし、武器は刀や薙刀と和風だ。角が開くときの音も居合の抜刀音のように聞こえる。仮面ライダーアギトはこの和洋折中の世界観が独特の印象を与える。くわえてモチーフの話だが、アギトが竜なのは神に逆らう者で、ギルスのカミキリムシは"神斬り"の連想なのかなと思ったりもする。

 47話以降は通常アンノウンの登場は無し。そのためアギトもギルスも苦戦が続く。前述したとおり彼らの苦戦もテーマの上だとは理解しているが、それでもちょっと寂しく感じてしまう。
 今回初めて描写されたギルスの角の短縮。これは今まで無視されていたというよりは今回描くことに初めて条件的に適合したという面があるだろう。この角は一応アギト同様調節機能があるが、ギルスの循環調節機能の不完全さ故に常にエネルギー全開で伸びっぱなしという設定がある。また、ノーマルギルスの時期ではそこまで苦戦することもあまりなかった。エクシードギルス(完全な力)になってから、それほどまでに消耗するのは今回が初めてということなのだろう(水のエル戦や前回の風のエル戦はダウンを取られはしたがまだ戦える状態だったし)。葦原のアンノウン感知能力がエクシードになってから明確になっているのと同様セリフで説明されないだけで案外こういう設定にも気を使われているのではないだろうか。

 地だけでなく風のエルも依然猛威を振るっている。今回のアギト戦では、突風で横の車のガラスが割れる演出が面白い。今なら青いCGエフェクトあたりで表現されるだろうが、この頃は作風のリアル路線もあって、風そのものにエフェクトをつけることはあまりない。そのため視覚的に見えづらいところを近くの窓ガラスが割れることで勢いを表現している。
 バーニングフォームの必殺パンチにも離れて突風で対処できるあたり、どの距離においても隙がない。

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